私が初めて江戸六地蔵めぐりというものがあることを知ったのは、地蔵繋がりというよりは、観音様めぐりだったのです。

江戸三十三観音めぐりというものがありまして、西国、坂東、秩父の日本百ヶ寺に比べたらまだまだ知られていないのですが、巡礼を初めてやる初心者向きの観音様めぐりになっています。

その江戸三十三観音めぐりの品川寺の入り口に、大きなお地蔵様がありまして、そちらが江戸六地蔵のひとつだと知りました。

道端にあるような小さめのお地蔵様からイメージするとかなり大きなお地蔵様なのです。

 

その後、調べてみるといくつかすでに行ったことがあるお寺の地蔵菩薩が含まれていました。

巣鴨のご縁日の時、巣鴨の地蔵通り商店街に入り口にお寺があって、そちらにもかなり大きなお地蔵様がありまして印象に残っています。

その巣鴨のお寺、真性寺も江戸六地蔵のひとつでした。

江戸六地蔵を調べていくと、さらに行ったことがある(お地蔵様も見たことがある)お寺がありました。

新宿の七福神めぐりで太宗寺(布袋尊)にも行ったことがあり、その太宗寺にも大きなお地蔵様があったことを覚えていました。

そちらのお地蔵様も江戸六地蔵だったのです。

ということで江戸六地蔵と知ってから、そう言えば以前にも見たことがあったお地蔵様がいくつか含まれていたことがわかりました。

今回の霊厳寺で江戸六地蔵のうち、4つのお地蔵様には参拝していたのです。

 

江戸三十三観音の品川寺で知った地蔵巡り

こちらの江東区にある霊厳寺は札所5番となるようです。

東京都教育委員会が書いたものによると、江戸六地蔵のひとつ、として「六地蔵のうち、霊厳寺の地蔵は第5番目で」と書いてあることから、江戸六地蔵としては札所5番だと思いました。

「銅像地蔵菩薩坐像」は東京都の指定有形文化財に選ばれています。

江戸六地蔵についての由来もこの説明書きに書いてあります。

江戸六地蔵の由来は、その一つ大宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都六地蔵に倣って、宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ建立したと伝えられいます。

各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、江戸錦町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。

六地蔵のうち、霊厳寺の地蔵は第五番目で、享保2年(1717)に建立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く宝珠を持つ左手の指のうち、四本の爪が密着した形になっています。像高は273cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。

江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

3メートル近くある地蔵菩薩ですから、けっこう大きいですよ。

 


花も多く落ち着きのある境内

ちょうど梅の花が咲く頃でした。

それほど境内には人がいませんでした。

でもたまには、御朱印を求めに来る人がいるようでした。



本堂に向かって左が梅で、右が松です。

めでたい感じがあります。

 



そう言えば、霊厳寺の本堂の裏手には、このような枝垂れ梅?枝垂れ桜?がありました。

江東区の観光サイトによると、

「霊巖寺は、徳川家康・秀忠・家光の信頼のあった雄誉霊巖が寛永元年(1624)、霊岸島(中央区)に創建」した寺院だそうです。

 


国の指定史跡もあり

こちらは、国の指定史跡になっている松平定信の墓です。

私は表参道のほうからではなく、脇のほうから入ったので、こちらの松平定信のお墓のほうから見ています。

 

「松平楽翁公霊域」となっていて、中には入れないようになっていました。

ここには、「昭和四年五月修築」となっています。かれこれ90年ほどたっているようです。

明暦3年の大火によって霊厳寺は焼失して、万治元年(1658)に海浜の低湿地を住職珂山とその弟子が埋めてそれによって今の地に移転したそうです。

 



本堂の裏手には、六地蔵もありました。

この六地蔵も味わい深いのですが、こちらが江戸六地蔵の地蔵菩薩ではないのです。

江戸六地蔵の地蔵菩薩は、本堂へと通る真正面の参道にあります。



裏手には他にも八大龍王の石碑などがありました。

水の神の八大龍王です。この石碑も古そうですね。



こちらが寺務所です。こちらで御朱印をいただきました。

江戸六地蔵と書かれ、お地蔵様の印が入っている御朱印でした。

 

寺務所の脇にはお地蔵様が入っている石碑もありました。


江戸六地蔵はかなり大きな地蔵菩薩

こちらが江戸六地蔵になっているお地蔵様です。「都有形文化財」と書いてあります。

説明書きにあったような「金箔」はすでに見えなかったです。

どこかに残っているのでしょうか。

これが江戸時代、できたばかりの時は鍍金されていたわけです。

 



霊厳寺の境内は人が見えませんね。

せっかくなので、この近くを歩いてみたら、他にもお寺があることに気が付きました。

通りを歩いていると提灯が見えます。



江東区の出世不動尊は長専院

外からも提灯があることが見えていたのがここ長専院です。

赤いお堂という点でも気になる存在です。

さらに、気になる言葉「出世不動尊」です。それも赤い文字で書いてあります。どことなく鳥居のようにみえる入り口でした。

この「出世」の言葉に惹かれて参拝している人は多そうに感じました。

その場でスマホを使って調べてみると、縁起が良い不動尊として親しまれていることがわかりました。

そうわかると、ぜひとも参拝しないといけない気になってきました。

 



鳥居のような入り口から入るとすぐにお不動様のお堂がありました。

 

金ピカの文字で「出世不動尊」と書かれていました。

江東区の観光サイトによると、

近江三井寺の不動堂住職期妙の夢の中に本尊の不動尊像が現れ「手助けをしたいので江戸に連れて行くように」とお告げがありました。霊巖寺の工事の中、お堂を建てて安置したところ、工事も順調に進み、後に不動寺に安置され上人から『出世不動』と命名されました。

関東大震災後、長専院と合併し、以来「深川の出世不動」として広く信仰を集め親しまれています。

 

それによると、霊厳寺の工事の中、お堂を建てて不動尊像を安置したそうです。

「手助け」というのは、霊厳寺の工事を順調に進ませるということなのかな。

関東大震災の後に、長専院と合併したようです。



不動堂の脇には三十六童子かな。

コンガラ童子かな。三十六童子とか、六童子とか言われている童子、制多迦童子とかの童子です。不動明王の家来ですね。

不動堂と本堂の間に寺務所がありました。

こちらで御朱印をいただきました。


不動明王像だけでなく、阿弥陀如来像も江東区の文化財

こちらが本堂です。

ここ長専院は不動寺ですから、不動明王が人にも知られていて有名ですし、不動明王像も古そうです。

江東区の指定文化財になっているのは、その不動明王像だけでなく、「木造阿弥陀如来立像」もありました。

写真入りで説明書きがあるのは、こちらの阿弥陀如来像でした。

 

写真があるおかげで、どんな阿弥陀如来像が本堂に安置されているのかわかりました。

江東区の文化財をホームページでみたところ、「長専院の本尊」としてこの阿弥陀如来立像が書いてありました。

それによると、以下の通りです。

像高は75.6cm。三尺阿弥陀(さんじゃくあみだ)と称される来迎形式(らいごうけいしき)の阿弥陀如来立像です。この像の造像技法は、「寄木造(よせぎづく)り」(二材以上を規則的に接合して造る技法)、もしくは「割矧造(わりはぎづく)り」(一木を前後または左右に割って、内部を刳り抜いてから彫刻し、接合する技法)です。眼は水晶を嵌めた「玉眼(ぎょくがん)」、表面の仕上げは、肉身には「金泥(きんでい)」、着衣には「漆箔(しっぱく)」が施されています。

形姿と造像技法から、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作品と考えられます。保存状態がよく、造立当初の姿をよく残していることは貴重です

立像の姿かたちから、何時代のものなのか、だいたいわかるのでしょうね。

寄木造りにしろ、割矧造りにしろ、一本の丸太を使って造るのではなく、つなぎ合わせて作っているということですね。



私は、提灯があったので、不動明王がお祀りされている不動堂のほうから入りましたが、こちらの本堂が前が表参道のようでした。

こちらが正式な入り口のようです。

こちらから入ると、真正面に本堂です。

 



外から長専院の本堂の写真を撮っていたら、枝垂れ桜のような木と古い石像をみつけました。

これは、桜の咲く時期だと見事だろうなと思いました。

もし江東区の霊厳寺と出世不動尊あたりを巡ってみたいなら、桜の時期だといいかと思いますよ。