上野の寛永寺は、徳川家康公が江戸を開いた時に天海大僧正と相談して江戸城の護り寺の鬼門除けとして創建されたお寺です。江戸城からみての東北になるのでしょう。

京都御所の鬼門除けとして比叡山延暦寺が開かれたのと同じように、です。

上野シリーズでは、ここを取り上げないといけませんね。徳川家の菩提寺です。

 

お正月の七福神巡りをした時に、ついでに立ち寄った時の写真と、その後に御朱印をいただきに参拝した時の写真をアップします。

お正月の松の内の期間だったためなのか五色の布が目立ちます。

その後に行った時の落ち着いた感じがする根本中堂とは違った印象でした。

根本中堂の読み方は、こんぽんちゅうどうですよ。なぜか、読み方を知りたい人がいるみたいですね。

 

東叡山寛永寺の根本中堂は本堂に上がれる

屋根には、シャチホコみたいなのが乗っていますね。何だろう。

 

お正月のときは、次から次へと人が訪れていました。

にぎやかさがあった寛永寺です。

ご本尊は、薬師瑠璃光如来です。

御朱印は本堂に上がってからいただきます。

本来は薬師如来の前でお経を唱えてから御朱印をいただくわけですから、本堂に上がりますよね。

お正月のときは、みんなで回っていたために時間が無くて本堂には上がれませんでした。

しかし、お正月の雰囲気がわかってよかったです。

 

境内というか、本堂前が思ったよりも広かったです。

そういえば、1月2日と3日は10時から15時まで、根本中堂の特別公開がされていたそうです。

その時に行けばよかったかな。

 

軽く参拝しまして、裏手から出ていきました。

昔の寛永寺の子院時代の雰囲気も残っているのでしょうね。

 

寛永寺は、そもそも上野公園の噴水のところにあったそうです。

しかし、慶応4年に焼失してしまいました。

その後、この上野の山にあった寛永寺の多くの子院のひとつ大慈院の場所移され、今の寛永寺となって再建されたそうです。

現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を移築したとのこと。

川越の地からここまで遠いのですけどね。

すごいことです。


ちなみに、この裏門は、午前9時から午後5時までしか開いていないようです。

それ以外の時間帯は通ることができませんね。

というか、ここの裏門を知っている人もなかなかいない(いても通る勇気がないかも)ですね。

 

寛永寺の御朱印を目指すなら浅間山観音堂(群馬県)まで行かないと

お正月の喧騒も去った後の寛永寺です。

お正月のときは、別の入口から入ったので、それも印象の違いになっているかもしれません。

瑠璃殿と読むのでしょうか。古びた扁額に書いてあります。

私が本堂に上がったときは、一心にお祈りする人がひとりでした。

その後に、御朱印で訪れる人が数名いた程度です。

 

根本中堂は薬師如来が本尊なのでお守りも当病平癒や身体健全の願意

今回は御朱印をいただいたので、本堂に上がったのですが、思ったよりも輝かしい御堂内部でした。

中央に薬師如来で、そのそばにも立派な立像があります。まるで薬師如来を守るような感じでした。

残念ですが、撮影禁止なので、中の写真はありません。

本堂に入って、薬師如来に向かって左側に御朱印をいただく場所があります。

そこでは御朱印帳も売っていまして、これまた昔の上野の様子がわかってほしくなる御朱印帳でした。

たぶん歌川広重が書いた絵を元にしていると思います。

 

御朱印を書いていただいた書き手さんが、ものすごい達筆で、そばで見ていた人がすごいわねと驚いていました。

(その人は、お供え用の大きなろうそくを買うので来ていた)。

 

根本中堂のお守りは、身体健全のお守りや、当病平癒のお守りが人気だそうです。

ご本尊が薬師如来ですからね。

薬壺お守りは、薬師如来の持つ「薬壷」を型どったものです。

肌身離さず持ち歩けるように根付のようになっています(ストラップというべきか)。

心の安定にもいいようです。

ころんとした丸い形が特徴です。

 

 

境内には、釣鐘堂もあります。

大晦日には鐘をつくことができるのかしら?

青銅のような灯籠もあります。

 

了翁禅師塔碑は東京都の指定旧跡

私はてっきり隣の御堂のほうが旧跡として指定されているのかと思ったら、この塔碑でした。

面白いことに亀の上に塔碑が乗っています。

六角形の台座です。黄檗宗の僧侶が書いた銘文です。正面だけでなく左側面にも刻んであります。

了翁道覚は、江戸時代前記の僧侶で、12歳で出家したそうです。

黄檗宗萬福寺の創建に関与したそうです。

なかなかのやり手で、上野の池之端に薬舗勧学屋を開店して、この利益で、白金瑞聖寺など多くの宗派に経典を寄進したそうです。

寛永寺では和漢の書籍を収蔵し講義も行う公開図書館勧学寮を設立しました。

八百屋お七の天和2年の大火事では罹災者救済にも努めたり、灌漑工事の社会事業にも尽力したそうです。

今でいう社会事業家としての面もあったのですね。

黄檗宗の自得院など創建に関わったり、萬福寺などにも修繕費を寄進するなどしています。

 

慈海僧正墓(都指定旧跡)

こちらは慈海僧正の墓です。

以前に紹介した護国院、目黒不動、川越の喜多院などを経て東叡山凌雲院の住職となりました。

東叡山を統括して代表する学頭には、凌雲院の住職が就任するのが恒例でした。

学頭は学問上の師であるとともに、親王の名代として将軍などの公式会見に出ることができる唯一の有資格者でもあったのです。

墓所はもともと、凌雲院の境内墓地にあったのですが、昭和33年に現在の地に移築されました。

聖観音菩薩像を浮き彫りにしてあります。舟形光背を背負い、蓮華座に乗っています。

未敷蓮華を左手に持っています。

右側には、「当山学頭第四世贈大僧正慈海」、左側には「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三十世」と刻まれています。

ここにも川越の喜多院とのつながりが見えますね。

 

以前の根本中堂の鬼瓦です。

 

上野の噴水のところにあったときは、どれだけ大きなお寺だったのでしょうか。

 

 

徳川歴代将軍御霊廟の廟内は非公開だけど外は見える


寛永寺の御霊廟には将軍(四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定公)が埋葬されています。

非公開なのですが、将軍家御霊廟特別参拝を受け入れているようです。

ただし、書面による事前申込が必要です。

 

 

篤姫の墓所も非公開

墓所は五代将軍綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあって、宝塔の脇には好物の枇杷の木が植えられているそうです。

16代当主であった家達公の養育に余生を捧げて、明治16年に49歳で亡くなったそうです。

16代将軍になる予定だった人の養育ですね。

 

谷中墓地には徳川慶喜公の墓所も


谷中墓地には徳川慶喜公の墓所があります。

神式のお墓だそうです。円墳のようなお墓です。

 

神式にしたのは、明治天皇への感謝の念からだそうです。

天皇家にならって神式で葬儀を行ったということです。

だから、寛永寺という仏式ではなく谷中墓地の中の一画にあるのですね。

しかし、葵の紋は、しっかり扉についております。

そういえば、寛永寺の根本中堂の扉についていた葵の紋とは微妙に形が違っていますね。

 

両大師と呼ばれる寛永寺の開山堂

毎月3日が御縁日の開山堂、両大師です。

毎月第三土曜日には写経会も行われています。

 

開山堂は、東叡山の開山された慈眼大師(天海僧正)をお祀りしているから開山堂なのですね。もともとの創建は正保元(1644)年で、その前年に亡くなられた天海大僧正を祀ることから「開山堂」なのでした。

そして、その天海大僧正が尊崇していた慈惠大師良源大僧正もお祀りしているから、「両大師」と呼ばれるようになったのだとか。

現在のお堂は平成五年に再建されたものだそうです。

大師だから、厄除けで有名なのでしょうね。

良源大僧正は正月3日にお亡くなりになったので、「元三大師」として知られています。

元三大師の名前を知らなくても、角大師(つのだいし)の護符を見たことがある人もいるかもしれません。

私はそちらで知りました。

霊力に優れた僧侶であったことから、良源大僧正のお姿を護符にしたものが魔除けとして広く知られるようになりました。「角大師」「豆大師」と呼ばれる護符です。

それと驚いたのが、良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られているそうなのです。これは知りませんでした。

こちらの両大師では、毎月三日の縁日に元三慈恵大師良源大僧正の御影が開帳されるそうですよ。

それと護符に描かれたものと違いをみたいですね。

 

天海大僧正は、もとは川越の喜多院の名僧の門下生だったそうです。

天海大僧正は、木の活字を使って経典を印刷するという事業も行っていたとか。

その木活字は重要文化財に指定されています。

 

寝ているお釈迦様でしょうか。

寝釈迦石がありました。

初詣の期間に行ったので、五色の布が掲げられています。

 

両大師(開山堂)の御朱印は書き置きをいただいて

御朱印は、本堂に入っていただきます。

このお正月のときは、御朱印をいただいていませんが、後日、行っていただきました。私が行ったときは、書き置きでした。

 

山門入ってすぐのところには、阿弥陀堂もあります。

 

お正月だからでしょうか。扉は開いていました。

 

境内には鐘撞堂もありました。

10月2日は、天海大僧正の命日として開山会として、法要が行われています。

そういえば、初午の法要は寛永寺の清水観音堂で行いますが、節分はこちらの開山堂、両大師で豆まきが行われています。

本堂に向かって右側に(寝釈迦石の近く)しっかりとした門がありました。

隣にいける門です。

幸田露伴の旧宅の門と書いてありました。

谷中にあったものを移築したそうです。柱などが丸木で造られているとのこと。幸田露伴の家ではなく、なぜ脇木門だけ移築したのでしょうね。

こちらの門を通れば隣の輪王殿へ行けるようです。

ここを通って旧本坊の表門へいけます。

冬の時期に行ったのですが、おそらく、春の桜のころはお庭の桜が咲いて見事でしょうね。

桜の満開の頃に行ってみたいです。