今まで、知らなかったのですが、武蔵国の一の宮は、大宮氷川神社だけと思っていました。

大宮氷川神社は数え切れないほど参拝していたのですが。

そうしたら、こちらの大宮氷川女體神社も一の宮だということを知りました。

なぜこんなに近くに一の宮が2つもあるのだろうと思っていました。ちょうどその時、一の宮めぐりをしている人がいるという話を聞いていたので、前から気になっていた氷川女体神社に行ってみることにしました。

参拝するからには、一の宮の御朱印もいただきたいと思って、そちらも購入かたがた行ってみることに。

氷川女体神社の近くは、緑多い場所になっています。さいたま市の中でも氷川女体神社のある緑区は自然が豊かなところです。

 


妻沼氷川公園のほうから行きますと、冒頭の写真のような橋を渡ります。

かなりの古社だと感じました。

大宮氷川神社と対になっている大宮氷川女体神社です。

そもそも女体というような、なまめかしい神社名にも驚いていました。

鬱蒼とした森の中に神社はありました。

鎮守の森ですね。氷川女体神社の社叢(しゃそう)林は、さいたま市の指定の天然記念物でもあります。

さいたま市のホームページによると、

モチノキ・シラカシ・タブノキ・サカキ・ヒサカキ・ツバキ・シイ・ネズミモチ・シロダモ・チョウジカズラ等の暖地性の常緑広葉樹林がよく発達している自然林です

とのことです。
暖地性の常緑樹だそうです。種類も多いですね。


武蔵国の一の宮の氷川女體神社

女體神社の鳥居の額です。「武蔵国一宮、氷川女體神社」と書いてあることがわかるかと思います。

一の宮であることは、間違いありません。

 




参道をまっすぐ歩くと、拝殿になっています。
鳥居から真ん前になります。

拝殿にも「武蔵国一宮」の文字がみえました。扁額は女體神社ではなく、「武蔵国一宮」のほうなのですね。

今ある社殿は寛文7年(1667)の銘がある社殿です。

徳川幕府四代将軍家綱が忍城主、阿部忠秋に命じて建てさせたものといわれています。

実際に行ってみるわかりますが、社殿は渋め色合いの赤っぽい社殿です。


文化財も多い氷川女體神社

氷川女體神社の拝殿の右側には、氷川女體神社の文化財が書いてある説明書きがありました。

かなりの量の文化財があるようでした。ここからも一の宮らしさがありますね。

一説には「埼玉の正倉院」とも言われているそうなのですが、なんとなくわかる気がしました。

 

女體神社の神輿、太刀、北条氏印判状、氷川女體神社社領寄進状及び朱印状、古社宝類(古鈴、鉾形祭具 (銘正応六年)、鉄鏃、木造鳥魚形祭具、木造男神像、二枚胴具足、鋳銅馬)もあります。

氷川女體神社は武家の崇敬を集めていて、鎌倉の北条氏、岩槻の太田氏、小田原の北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵されています。

上記の説明書きにも、徳川将軍家からも社領50石を寄進されていることがわかります。

さらには、お寺かと思うような「紙本墨書大般若波羅蜜多経」というものもあるそうなのですが、こちらは浦和博物館へ寄託しているとのことです。




大宮氷川神社が父で、大宮氷川女體神社が母の夫婦神(子は中山神社)

本殿は全面に朱の漆が塗られているので、赤っぽい感じがします。

本殿が拝殿と相の間で結ばれ、形式的には権現造りに近い建造物なのだそうです。

氷川女體神社の女體とは、お祭りしている御祭神が稲田姫命だからだそうです。

スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した時に助け出した姫で、妃にしています。

夫婦神としてスサノオノミコトとイナダヒメノミコトを両方ともお祭りしている神社もありますね。

大宮氷川神社もそうでした。

大宮氷川神社の場合、須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)の夫婦神に、子ども神である大己貴命(おおなむちのみこと)もお祀りしています。

神社としても夫婦と子どもがありまして、氷川女體神社と、大宮駅近くの大宮氷川神社を夫婦神といい、見沼区中川にある中山神社(氷川簸王子神社)のと子ども神をあわせてみるということもあるようです。これら三社を合わせて、武蔵国一宮としていたとも伝えられています。

たしかに地図を調べてみると、この三社はほぼ一直線上にあります。大宮氷川神社から中山神社、そして氷川女體神社と北西から東南に続いています。



境内の木の鳥居のところには、力石がありました。

「七拾貫目余」と書かれていたので、200キロ以上の重さです。

 


拝殿の右には、龍神様がお祀りされている社殿がありました。

説明書きによりますと、

「この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座します。

かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祀『御船祭』を執り行ってまいりました。享保十二年(1727)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、『見沼田んぼ』となってからこのお祭りは『磐船祭』として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は十四世紀から行われていたとも推定されます」

水がよく出るところには、龍神伝説が多いですが、こちらの大宮氷川女體神社のあたりもそのような感じですね。

ここの説明によると、平成十三年(2001)五月には、約五十メートルの巨大な昇天竜を作製して「竜神まつり」を開催したそうです。

けっこうカラフルな昇天竜ですね。

それにしても、今尚続いていることがすごいことです。



氷川女體神社は、古社のためか、境内社も多かったです。

本殿の裏側には、このような祠がいくつもありました。

さいたま市の天然記念物である社叢、林の間にあります。



石上神社のほか、横に並んでいる祠もありました。

 



「大般若波羅蜜多経」も文化財にあったくらいですから、神仏習合時代のものでしょうか。「越立山、富士山嶽々、湯殿山」「坂東、秩父、西国拝礼供養墓」と書いてある石碑もありました。

坂東、秩父、西国なら、どう考えても百ヶ寺巡礼でしょう。

その左には、「三峯山、榛名山大権現」という文字がみえました。

やはり山岳信仰が根強かったのでしょうね。

 



写真を撮りやすいようにと、参拝記念の板がありました。

参拝記念、武蔵国一宮氷川女體神社となっていて、建国記念の日に行ったことがわかります。

(長い間、ブログを書くのを忘れ下書きのままにしてました)


社務所で全国一の宮の御朱印帳を買いました

女體神社というだけあって、女性的なところがあります。

巫女人形納処がありました。

「お願いごとが叶ったら、着物をきせてお礼参りをいたしましょう」と書いてありました。

社務所では巫女人形も売っていました。

全国一の宮専用御朱印帳は、大小あるみたいなのですが、大宮氷川女體神社には、大きいものしかなくて、そちらを購入することにしました。

 


氷川女體神社の道標

なにやら古い石碑が建っているなと思って読みましたら、参道を案内する道しるべでした。女體宮道という文字がみえます。

 

「もともと赤山街道沿いの大間木水深(浦和)の地にあった、この石碑には「武蔵國一宮」「女體宮道」とあって、幕末の弘化二年(1845)に当社への道しるべとして赤山街道に面して建立されたものです。

また、当社から北西約四百メートルの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政二年(1855)に、馬場方面から参詣する人たちの便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものです。

幕末のころに相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど当社への参詣客が非常に多く、篤い信仰を得ていたこのを物語る貴重な資料となっています」

ちょうど、全国一の宮の御朱印帳を購入した時に、石で作られた鳥居のことは聞いていました。

ぜひ行ってみてくださいとのことでした。

住宅地の中にあることと、女體神社から北西の方位にあることくらいしかわからなかったのですが、行ってみることに。

 


住宅地にある氷川女體神社の石の鳥居

最初、グーグルマップを見た時はわからなかったのですが、北西の方向に地図を広げてみたら、見つけることができました。

グーグルマップにも載っていました。

その場所に行ってみると、たしかに石造りの鳥居です。

こちらは、「氷川女体神社」と書いてある額がかかっていました。旧字体ではなく「体」の字ですね。

「當御宮廣前」という文字が向かって左側に、右側には「奉献氏子中」と書いてありました。

確かに氏子が奉納したようです。

 



裏側に回ってみると、「安政二年乙卯秋八月上浣建之」と書いてあるのがわかりました。

安政二年の上にも何か書いてあるのかもしれませんが、判読できず。

旧暦でしょうから、八月は秋ですね。