前回に引き続き、上野の寛永寺関係の話になります。

こちらの護国院は寛永寺の子院になります。「本日かぎり」と書かれた小判守が初甲子の日だけ購入することができます。

 

1625年、前回も書いた天海僧正により東叡山が開かれたのですが、護国院は天海の命によって開基生順が子院として建立されました。

 

たまに、こちらの護国院のことを大黒天の護国院のほかに、「釈迦堂」という人もいます(寛永寺の旧釈迦堂)。1630年、天海により御堂が立てられ、釈迦文殊など三尊像を安置したことから、そのように呼ばれていたのです。根本中堂ができるまでは中心的存在だったのですね。

実は場所も移動しています。

三代将軍家光公より大黒天の画像が寄贈されてから、護国院大黒天として知られてるようになったのだとか。

 

だからこそ、一般の人にとっては、「谷中七福神の大黒様」のお寺というほうがわかりやすいと思います。

谷中七福神めぐりは、江戸最古の七福神といわれています。

大黒天ファンの私は、谷中七福神めぐりをしていたときから、今年の甲子の日、それも初甲子は、こちらで御祈祷したいなと思っておりました。

 

谷中七福神めぐりについてのブログ記事は、こちらです。
谷中七福神めぐりは江戸最古!2020年は田端駅改札出たら地図が置いてあった

 

いろんな寺院で大黒様の御祈祷があるのなら、体験してみたかったのです。

 

 

初甲子の大黒天開運護符(小判守)と御札をいただきました

初甲子の日だけいただけるという御守をいただきました。

ひとつが500円でしたね。外に貼ってある紙にも値段が書いてありますから、それを確認しておくといいです。

御朱印もそうなのですが、古いブログなどを見ているといつの間にか、値段が変わっていることがあるのですよ。

300円だった御朱印が500円になっていたとか。

だから、何事も確認が必要です。

 

この小判守りは、初甲子の日のみ、それ以外の甲子の日にはいただけないから貴重です。

一年に1回だけの尊い「開運小判守り」です。

そういえば、こちらの護国院ですが、毎月3日にも大護摩祈祷を午後2時から行っているそうです。

それとは、別に甲子の日の大黒天の御縁日があります。

これは60日に一回回ってきますから、約2ヶ月に1回となりますね。

私は、初甲子の御祈祷は午後2時からものに参加しましたが、この初甲子の日だけ、午前11時と午後2時からの2回行っています。

それ以外の甲子のご祈祷は、午前11時からのもののみとなります。

それだけ初甲子には参拝する人が多いのでしょう。

大黒天の御祈祷をいろんな寺院でやってみたいと思っている人は、時間も参考にしてみてください。

中には、午前は○○寺で、午後は別の○○寺で御祈祷に参加する、という人もいるのかな。

 

 

不動明王の真言は何度も唱えました

 

御祈祷は、不動明王のご真言を何度も唱えるタイプです。

護摩祈祷によっては、数回だけとかありますよね。

こちらは、大黒天のご真言ではなく、不動明王のご真言をずっと唱えるタイプでした。

私は真言はいくつか暗記していますが、不動明王のご真言は比較的早めに暗記してしまいました。

長めの真言だと思うのですが、それだけ口ずさむ機会が多いのでしょうか。

 

それと般若心経も1回だけ皆さんとともに唱えました。

こちらの護国院では御祈祷が終わったら、その煙を自由に自分の持っている財布なり数珠なりにかざすことができるタイプでした。

川越の成田山別院での御祈祷と似たタイプです。

御火加持というような火にかざすことができるタイプではありません。

僧侶の方々が退出してからは私のように写真を撮ったり、後ろにある十二支の守本尊(虚空像菩薩、如意輪観音などあり)に行って拝んでみたりと思い思いにすごします。

そういえばなぜか、あの独特なイラストで描かれる元三大師の像(慈恵大師)が絵とともありました。角大師ともいわれます。絵が描かれた木札には、上野両大師と書かれていたのですが。

 

驚いたのが御祈祷の最中に帰ってしまう人が何人かいたこと。

御祈祷自体は30分くらいのものでしたが、時間がない人もいるのですね。

私はせっかくの場にいると思うと、いつまでグズグズ御祈祷の場にいたいタイプなので、なんだかもったいなく感じてしまいます。

 

節分会は令和2年2月3日午後三時から祈祷と豆まき

お庭もきれいになっています。

他の寛永寺関係の寺院に比べてそれほど参拝の人が次から次へと訪れるわけではありませんが(辯天堂や清水観音堂などは人が多い)、きれいに整えられているお庭です。

 

楽堂もあります。建物も歴史を感じます。

もしかしたら、節分の豆まきは、こちらを使うのかしら?

間違いがあるといけませんので、御祈祷参加者はいただける「令和2年天台こよみ」の裏側の写真をアップしておきます。

これをみたら、甲子の日もわかります。

納めの甲子の日まで載っています。

手前にあるのが、先ほどから書いてきた「小判守り」です。

初甲子開運護符となっていますが、これが小判守りなのです。

透かしてみえるでしょうか。小判の形がうっすらとわかるかと思います。

封がしてあるので、中身は確認していませんが、お財布に入れておくつもりです。

 

小判守り以外の御守について


大黒天の絵が奉納されていました。

 

護国院で売られている御守の値段についてですが、開運福あつめが、500円、破魔矢が700円でした。

大黒天のお姿(御影)が1,000円です。

ご祈祷を頼んだので、今回は御影は購入しませんでした。

その代わりに購入したのが、小判守りですね。

限定もの、それも年に1回だけとなると弱いです。

ご祈祷札という紙札もありまして、聞いたら、これもご祈祷したものを売っているので、御札と同じですよ、とのことでした。こちらなら、500円です。

しかし、ご祈祷でいただく御札を選んでしまいました。

何事も体験です。

そのほか、福銭がありまして(よく弁天様などの神社などであるタイプ)、こちらは100円でした。

開運守り、厄除け守りはそれぞれ200円です。

そのほか根付タイプの大黒天もありました。こちらは500円だったかな。

木彫りの大黒天とかあればいいのにと思うのですが、そういうものは売っていませんでした。

やはりお姿、御影なのでしょう。

 

 

日本では大黒天というと温和な顔をしていますが、絵画に書かれた大黒天をみますと、意外と怒り大黒天というものが多いです。

青梅の延命寺にある、お正月の元旦から15日くらいまで見ることができる掛け軸に描かれた三面大黒天の絵も怒っている顔でした。憤怒の大黒天でした。

 

憤怒の大黒天は、インドの神様と感じが残っていますが、温和な顔の大黒天は、大国主命と混同されて、日本ならではの大黒天になっています。木像では憤怒の大黒天はあまり見かけませんが、掛け軸など絵画になると憤怒の大黒天をみます。

そもそも大黒天はインド古来のマハーカーラという戦争の神様です。恐ろしい神様と考えられていたのです。

それが、日本古来の福の神である大国主命と同じである(大国と大黒がだいこくで同じ音)考えられ、戦争の神様から福の神へと変化したのです。

打ち出の小槌だとか、米俵の上に乗って大きな袋を担いでいる大黒さまは、日本では食料の守護神のようになってきました。

そのため、鎌倉時代には食料倉庫の守護神から、ネズミがお使いとされ、「子の日」との結びつきがありました。

 

三面大黒天も像となっているものは、毘沙門天、弁財天のお顔とともに大黒天のお顔がある3体のパワーあふれる三面大黒天ですよね。

三面大黒天の場合、御縁日が甲子の日ではなく、毎月3日となっていることも疑問のひとつなのです。

温和な感じがする大黒天がファンの私としては、またまたいろんなところで、御祈祷に参加してみたいなと思っています。

 

同じく上野の不忍池の大黒堂でも甲子の日に


同じく初甲子の日に、上野の不忍池、弁天堂の隣の大黒堂にて初甲子の日のご祈祷が行われていました。

寛永寺の不忍池弁天堂の大黒堂の大黒天は、豊臣秀吉が大切に護持したと伝えられる大黒天がお祀りされているといわれています。

寛永寺の伽藍の一つとしての大黒堂です。

こちらの大黒堂は、太平洋戦争で、焼失したのですが、建物は焼失してもご本尊である大黒天は安泰だったそうです。

昭和43年に旧の位置に再建されました。



甲子の日は、十干十二支の一番最初の日になりますから、物事を開始するのにふさわしい日とされています。

ネズミは大黒天のお使いです。

だから甲子、子の日です。

中には、子の刻に「甲子待」として夜の夜中に、大豆、黒豆をお供えして大黒天をお祀りするという風習もあります。

二俣大根をお供えする場合もあるようです。


私は上野の不忍池弁天堂の隣の大黒堂には、すでに法要、ご祈祷が始まってから行ったので、お堂の外からみていました。

お焚き上げの煙がたっていたようで、煙に匂いをかんじました。

考えてみたら、東叡山としては、不忍池弁財堂大黒堂の大黒天と、護国院の大黒天と2体ある、ということになりますね。

 

上野の弁天堂に大黒天がお祀りされているのは、やはり三面大黒天の影響もあるようです。

大黒天、毘沙門天、弁財天の三面大黒天ということです。弁財天だけでなく、大黒天も、ということです。

大黒天は、食料や富、毘沙門天は武力や勇気、弁財天は才能を授ける福の神です。

6本の手には様々な道具を持っています。合体することで、ご利益が何倍にもなります。

そう言えば、豊臣秀吉も出世を願って三面大黒天を信仰していたと聞きます。三面大黒天を最初に信仰したのは天台宗の宗祖である最澄といわれています。