お正月も後半になった時、浅草へ行くことがあったので、浅草神社、浅草寺、浅草富士浅間神社と巡ってみました。
浅草の富士浅間神社は、以前から知っていたのですが、参拝はしたことがありませんでした。
今回、浅草神社にて浅間神社の御朱印をいただいたので、参拝することにしました。順序としては、参拝してから御朱印なのですが、浅草神社に先に行ってしまっていたので、その順番に。
目次
浅間富士浅間神社で富士登山
私は東京都内では、けっこうな数、富士登山しています。
と、言っても富士塚ですが。
護国寺、鳩森神社、品川神社、成子天神社、上目黒氷川神社、多摩川浅間神社、思いつくものだけあげてみました。
思いついたものでも、すでに7社(お寺含む)ですからね。
ということで、今回もしっかり登山です。
浅草富士の場合、どういうわけか、中央に「子授け石」がありました。
つるつるの丸い石で、なぜ富士塚と子授けなのかは、よくわかりません。
富士登山ですが、ここの浅草富士は、かなり楽勝の富士登山になります。階段までついていますから。
成子天神社から比べると、あっけなく終わってしまいます。
しかし、お子さんでも登ることができる富士登山、富士塚として貴重だと思っています。
登山口と降りるための下山口にはこだわりがあるようです。向かって右から登って左から下山です。
社務所が閉まっていたので浅草神社にて御朱印を
あとで写真をお見せいたしますが、夏にも夏詣として浅間神社に行っています。その時と光景が違います。
お正月だとまだ寒いので、境内の木々の葉がまだなので、寂しい感じに見えてしまいます。
なんだか閑散とした神社にみえますね。
特に、社務所が開いていない、神社の拝殿の扉が開いていないというのも大きいかなと。
夏に同じような角度からも撮っていますが、同じ神社でも違ってみえます。
社務所が開いていない時は、御朱印は浅草神社でいただくことになります。
江戸時代には、浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表するような富士信仰の場所だったそうです。江戸時代は神仏習合の時代でしたから、仏が神の姿を借りて世俗に現れるとする権現思想の中、富士権現として、浅草寺の子院が管理していたということです。
明治維新後は、浅草寺の手を離れ、明治6年には浅草神社が社務を兼ねることになったとのこと。
本物の富士登山でも、五合目から登山という感じなので、この浅草富士も五合目からスタートです。
本物は富士スバルラインで中腹まで車で行けますからね。
そういえば、こちらの富士塚も毎年7月1日に「富士山開き」が行われているそうです。
5月には植木市(5月の最終土日に)開催されているということです。
きちんと、九合目と、頂上が分けられていました。
やりました!富士山頂上です。
石でできた拝殿建物です。
お賽銭は、ここに置かずに、社殿前のお賽銭箱に入れます。
この富士塚は元々富士山に似た小高い丘だったこの浅草富士浅間神社の境内に富士塚を作ろうとして、平成28年6月に氏子、崇敬者によって作られました。
だからなのか、富士塚自体は、比較的新しいなと感じました。
夏詣で半年後に浅間神社に行ってみた
半年後の7月に行ってきました。
夏詣です。
お正月が初詣なら、夏は夏詣。
今回は、夏詣の期間として、社務所が開いていましたよ。
浅間神社は、富士山への信仰に基づき勧請された神社で、お祀りしているのが、木像木花咲耶姫命坐像です。
『浅草寺志』にも書かれていることから江戸時代初期にはあったようだとのことです。
江戸時代は富士信仰が最も盛んな頃と聞いています。江戸時代では交通事情も悪く、そうそう富士山にも登れずで、富士山自体を信仰の対象とする富士講が結成され、ここ浅草浅間神社も富士山遙拝所として創建されました。
そういえば、浅間神社の境内自体が少し高いところにありますが、中世から江戸時代初期にかけて関東地方では人工的に作った塚や自然にできた高い場所に浅間神社を勧請する習俗があったそうです。
浅草の富士浅間神社もまさにそのとおりです。
もともと浅間神社は、旧浅草三好町10番地に富士権現として鎮座していたそうです。江戸時代の元禄期に現在の地に遷座されたのだと伝えられているそうです。富士山に似た森がある小さな丘だったということです。
この浅草三好町とは、現在の蔵前二丁目あたりではないかと推察されているということです。
三好とは、「船首(みよし)」からの当て字といわれ、一帯が地域の重要な御厨河岸だったことがわかります。
創建された年については元禄年間以前の「江戸絵図」には鳥居が描かれていたこと、元禄年間には創建されていたことなどから、まだ推察の域を脱していないようです。
社務所も開き茅の輪も置いて
拝殿に向かって右側の建物が社務所になります。
そこが冬の時の写真と違っています。冒頭の写真ではわかりにくいですが。
建物の扉が開いていて、提灯が掲げられています。
それと夏越の大祓で使ったと思われる茅の輪もありました。
社殿は新しくみえますが、それは平成9年から10年の改修工事があったからです。
外に漆喰塗がほどこされているのですが、内部には明治11年に建築された土蔵造り本殿があるとのこと。
この改修工事の時にかなりの所蔵品が確認されたそうです。
それらは台東区の有形民俗文化財に指定されました。富士信仰の資料になります。それら資料は、社務所1階の会議室に展示されているそうです。
明治11年に建てられた社殿は、東京大空襲で土蔵造りの本殿以外は全焼です。
その残った土蔵造りの本殿の観音扉の内側には明治維新前後の作と思われる下り龍の漆喰彫刻が残っているそうですよ。
拝殿の額には、「浅間神社」と書いてあります。
茅の輪くぐりもしてきました。
それにしてもお正月の時と違うのは、木々の緑の多さです。雰囲気も変わってきます。
私自身は、今まで浅草によく行っていたので、ここの浅草富士浅間神社の前も通っていたのですが、私のイメージではいつも社務所は閉まっている、だったのです。
それがこうやって社務所の扉も開いて、提灯の明かりがともって、外には旗が立ち、拝殿の前には茅の輪があるというのは、「特別感」があります。
お正月の頃は、まわりには、何もない印象だった浅草富士ですが、緑の中に立っている感じに見えます。
いつものごとく、登山口と下山口の通路が分かれています。
御守などを購入する窓口と御朱印の窓口は違っていました。
今回は、書き置きの御朱印です。
冨士浅間神社でいただいたリーフレットに、冨士浅間神社の授与所にて麦藁蛇(むぎわらじゃ)の頒布を行っていることが書いてありました。
麦藁蛇は、疫病や水害などの災難除けのご利益があり、水道の蛇口や水回りにお祀りすることで水による災難から守られ、日々の生活を無事安穏に過ごせるとされているそうです。
年ごとにこの麦藁蛇を家庭内にお祀りする習わしだそうです。
富士塚の山開きの日に麦藁蛇を買うというようになっていたのですが、浅草冨士浅間神社では、植木市の時に頒布しているようですね。
調べてみると意外とシンプルなもので、駒込の冨士浅間神社の麦藁蛇とは違った形をしていました。
季節がわかるようにと、紫陽花の花とともに写真を撮りました。
このブログ記事の3枚目の写真とほぼ同じ角度で撮っていますが、印象がまったく違います。
お正月の3が日だったら、もう少し活気があるように見えたのかもしれませんが、冬の時は、なんだか物寂しい感じにみえましたが、7月は緑があってとてもいい感じです。
普段は社務所も開いていないのに、きれいに管理された神社の境内です。