銭洗いと言えば弁財天様が有名ですが、不動明王の銭洗いもあると聞いて行ってみた
銭洗いといえば、弁財天様だけかと思っていたのですが、お不動様もあると聞き、そのお寺に行ってみました。
本来のお寺の名称は、黄梅院(おうばいいん)なのですが、高輪銭洗不動明王として知られているそうです。
本当に、知る人ぞ知るの金運向上のパワースポットらしいのです。
不動明王と聞きますと、強そうなイメージですし、何より銭洗いでは弁財天様しか行ったことがなったものです。
ただし、この黄梅院ですが、わかりにくい場所にあります。私はグーグルの地図に従って行きました。
かなり細い道を行きましたが、もっとわかりやすい道もあったみたいです。以前、白金高輪から目黒方面へ山の手七福神めぐりで行ったことがあったので、思い出しました。
ここ一帯は、墓地がありまして、お寺さんもけっこうあるのです。
とにかく、冒頭の写真のとおり、電信柱の案内を目標にするといいです。
まわりは昔からあるような商店街なのですが、そこにぽっかりとお寺さんへの参道があります。
お庭には、梅の木と思われる木々がありましたが、梅の季節ではなかったので、見ることは叶わずです。
ここが黄梅院です。高輪銭洗不動の文字が見えます。
御朱印はいただけるのかわかりませんでした。私が行った時は、人が全く見えません。どこか御朱印をいただけるような場所があったのかしら。
仕方がないので、あきらめました。
お参りをすませ、左手をみると、なにかしら、つくばいや池のようなものがみえます。
近寄ってみると、ここでお金を洗う、銭洗いの場所のようでした。
ざるを手に取り、さっそくお金を洗うことに。
銭洗いは、どこでも作法は一緒かなと思って、ザルにお金を入れてザルごと、水につけました。
品川神社の弁財天様のところでも、鎌倉の銭洗弁天様のところでも、基本はそのようにしてました。
西方二十四番と書いてあります。
何かと思って、略縁起を読みました。
320年前に開創されたお寺で、東海道の名所、十一面観音を安置した西方二十四番の札所として知られていたそうです。
寳珠から湧き出る浄水でお金を洗い浄めて祈願したならばお金に不自由しないのだそうです。
そこには、「当山開運銭洗不動でお銭を洗ひ浄めお金を大切にと、祈願し祈祷したなれば広く世の人々を衆生済度、商売繁昌、お金に不自由なく一家の福徳円満を抜いて楽となし、悲しみを転じて喜びとなすことが必ずや成就する意であって、広く崇仰せらる福善神であり大真誓願である」
と書いてありました。
けっこう歴史が古いお寺だったのですね。
それにしても、お金を洗って清めて、お金を大事にすれば、「お金に不自由なく」なるというのは、いいですね!
あっという間に参拝が終わったので、近くにある赤穂浪士四十七士(忠臣蔵)で有名な泉岳寺へ行きました。
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泉岳寺は赤穂浪士の義士祭のある12月(4月もあり)には訪れる人も多い
またもや、グーグルの地図に従って行きました。
それにしても、ここ一帯はお寺が多いですね。地図を見ていたら、お寺ばかりです。
こちらが泉岳寺の中門です。最初見た時、山門かと思ってしまいました。
木造が歴史を物語ります。かなり重厚な門です。
山号は、萬松山と読めます。
お寺は、朝は早くから開いていますが、夕方はすぐに閉まります。いろいろとお寺を見て回ると時間は過ぎてしまうのですよね。
朝七時から夕方6時、冬の間は、5時までです。
中門を入ってすぐにある山門も古そうな感じがしたのですが、再建されたものだそうです。
それでも天保三年(1832年)に再建ですから、十分古いのですが。その後調べたら、昭和7年に大修理を施されていたそうです。
そもそも泉岳寺は、桜田門のあたり、今の警視庁がある場所付近にあったそうで、大火で焼失してから、高輪の地に移転したきたそうです。その頃に浅野家との縁ができたとのこと。
山門には二階に行く階段がありまして、そこには、十六羅漢が安置されているそうです。
1階部分に江戸三龍のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれているそうです。銅彫を見なかったので残念ですが。
泉岳寺を守る龍なのでしょう。
こちらが山門を裏から撮った写真です。もっと近くに寄ってみればよかったな。
赤穂浪士の供養祭には登ることができるのかしら。
山門のところから、泉岳寺の本堂を写しました。
このように大変きれいで、手入れが行き届いている場所です。
12月14日には、多くの人が来ていたのでしょう。
私が行ったのは、12月14日から10日ほど後だったので、お墓のところにはお花が備えられていました。
まずは、お線香を買って、備えてからお参りをしました。
今は、お線香を買うのは自動販売機なのですね。
100円玉しか入れられないので、お釣りがないようにしないといけません。
お線香を備えてから、本堂に参拝です。
額には獅子吼(ししく)と、獅子が吼えるように、お釈迦様が説法をしたということですね。
なんとなく泉岳寺にふさわしい感じに思えます。
本堂の左手には、梵鐘・鐘楼堂もありました。「朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いて」いるとのことです。
12月31日大晦日には、一般人も鐘をつけるのでしょうか。
さて、御朱印を頼んでいる間に、赤穂浪士四十七士のお墓参りをします。
赤穂義士の墓地は、本堂とは別の区切られた場所に
墓地になりますから、赤穂浪士四十七士の墓は、お寺の本堂とは別の場所になりますが、そちらの方に歩いて行く人がいますので、すぐにわかります。
血染めの梅、血染め石です。浅野内匠頭が切腹をしたとき、その血がかかったとされる梅と石です。
こうやって時代が変わっても、梅と石は、残っているのですね。
境内の中のここ一帯は、いろんなものが集められていて、これは、首洗い井戸です。
赤穂浪士四十七士が本懐成就後に、吉良上野介の首をこの井戸水で洗って、主君の墓前に供え報告したことから、この井戸を首洗い井戸と呼ばれるようになったとのことで、足元の石碑には川上音二郎の文字が見えます。
井戸の上には、金網が張ってあって、井戸を覗くことはしませんでした。
赤穂浪士四十七士のお墓へと行きました。
「この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです」と書かれていまして、聖路加病院のあたりにあった、お屋敷の裏門だったそうです。
なんと、聖路加病院のところに、鉄砲州上屋敷があったのですね。
さすがに、お墓の写真はありませんが、泉岳寺の墓碑は48人分あるそうです。
討ち入りに参加をしたかったが、周囲の反対にあって、本懐をとげられず、討ち入り前に切腹した人の供養墓もあるためです。ふたりの墓は、供養墓であると書いてありました。
ずらっとお墓が並んでいて、大石内蔵助良雄とか、大石主税良金とか、間新六光風のように、フルネームというのかな、そちらの名前で書かれていました。
ここは、12月14日ではなかったのに、けっこう人が訪れていて、お参りをしていました。
お添え物もおいてあったので、訪れる人もいるのですね。浅野内匠頭の墓には、お花がお供えされていて、中央義士会とか、忠臣蔵倶楽部の名前が見えました。
そういえば、赤穂浪士四十七士たちのお墓と、浅野内匠頭のお墓は、別の場所にありまして、やはりそこは別格なのでしょうね。
他にも、赤穂義士の記念館(赤穂義士記念館と義士木像館)もありましたが、時間もなく中は見ていません。多くの参拝者もお墓目的のようでした。
泉岳寺の外には、赤穂浪士のことを学ぼうという勉強会のようなものも書いてあって、時代が流れても、今も、研究されて、語りづがれているのだと再確認した次第です。